ぶいふぇべうふ

昔プレイしたゲームだったりの感想をかいてます。

Detroit: Become Humanをプレイした感想

よかった点

アメリカの)現代社会問題をアンドロイドを通して象徴し表現している。差別の問題、移民労働者問題。

人間が生み出した知性体と人間との関係をテーマにしている。映画「エイリアン」「ブレードランナー」のリドリー・スコット監督的なテーマ。

物語の分岐が膨大にあり、プレイヤーの選択が物語に大きく影響を与える。生き方を選ぶという快感がある。

アドベンチャーゲームで選択肢を選ぶのが大好きなプレイヤーにとってはたまらない出来。

このゲームでしか味わえないようなゲーム体験を味わうことができる。

残念だった点

プレイヤーの選択のみがストーリーに影響を与えてほしいのだが、すばやく操作を求められるイベントの入力の出来不出来で重大なストーリー分岐が発生してしまう

しかし難易度設定でこの問題は緩和することができる模様(私は難しい方=EXPERIENCEDでずっとやってた)

まとめ

まるで映画のような作り方をしている。ゲーム内ムービーが映画のようだということではなく、設定やストーリーがただゲームのためのものなのではなく社会や思想を表現している。
今作の舞台は近未来のデトロイトデトロイトはもともと自動車産業で栄えた都市だが、現代では生産拠点が賃金の安い外国に移ってしまった結果産業を失い廃墟となっているという。そして近未来のデトロイトはアンドロイド産業で復興している。ただし、労働の多くはアンドロイドが担っており、人間は高い失業率で苦しんでいる。アンドロイドには自由意志も人権もなく、奴隷のように扱われている。街では失業者たちが反アンドロイドを訴えている。非常にリアリティのある社会描写だと感じた。

このアンドロイド設定はいくつもの社会問題を象徴している。

人種差別。例えば作中のバスはアンドロイドの乗る区画と人間の乗る区画とで車内が区分けされている。これは昔アメリカのバスで黒人専用席と白人専用席とが分けられていたのを踏まえている。そして、アメリカで人種差別と戦う公民権運動の始まりのきっかけとなったのは1955年のモンゴメリー・バス・ボイコット事件、つまり疲れた黒人労働者がバスの白人専用席に座ったことなのだ。
少しだけネタバレしてしまうが、アンドロイドによる社会運動を展開していくのにあたり、平和路線か暴力路線かを選択するというのが重要な要素になる。これは、やはり公民権運動においてキング牧師のとった非暴力不服従方針と、ブラックパンサー党などのとった武力闘争方針とを踏まえている。この二者は映画やコミックスの『Xメン』においてもプロフェッサーXとマグニートーとにそれぞれ代表させて対置された方針だ。アンドロイド闘争の描き方は公民権運動の歴史を踏まえている。

人間の失業者がアンドロイドに仕事を奪われているから奴らを追放しろと訴えているのは、やはりアメリカに流入してくる不法移民の労働者に対する危機感をアンドロイドに仮託して表現しているものだと考えられる。メキシコとの国境に壁を築くとアピールしたトランプ氏が大統領に選ばれたのは、自分たちの仕事が奪われるという白人労働者層の不安が原動力のひとつだったはずだ。アンドロイドは労働市場において人間社会の驚異として位置づけられている。

そして、自分たち人間が生み出した機械に自分たちと同等の権利を認めることができるのかという問いかけも含んでくる。これはAIの発達が目覚ましい現代・および近未来において現実の社会が直面するかもしれないテーマだ。
人間は自らが作り出した下僕と地球の覇権を争わねばならないかもしれない。これは歴史上でも直面したことのない問題だ。
映画『2001年宇宙の旅』では、人間と人工知能とが知的生命体としての覇権を争い、人間が勝利する。
映画『エイリアン コヴェナント』では、人間が作り出したアンドロイドが、人間の創造主(人間にとっての神)すら絶滅させて、エイリアンを研究して自らが創造主になろうとする。
創造主と被造物との闘争というのはSF的なテーマで、つまり未来に遭遇すると予測されている問題についての予行練習だ。どちらに軍配を上げるのかは作品によっていろいろに描かれてきた。では今作ではどう描かれているか。見届ける楽しみがあった。


アドベンチャーゲームの醍醐味は、選択肢を選ぶことを通して生き様を示せることだと思う。自分のありたい自分を選ぶ。実存というやつだ。
三人の主人公それぞれに重大な選択の機会がある。それを選ぶとき、自分はそういう人間なんだということを表明することになる。私は非常に興奮した。

映画であれば一本道の確定した物語があるので物語を通して制作者の主張を表現することができるが、ストーリー分岐のあるアドヴェンチャーゲームの場合はむしろ主張を行う主体はプレイヤーなのかもしれない。人間とアンドロイドとの関係、自分と他人との関係はこうあるべきだというのをこのゲームをプレイすることを通してプレイヤー自身が表現することができる。映画と違うインタラクティブ性を持つゲームならではの体験だ。


なのだけど、物語展開とは別の水準でやはり制作者たちの意図やメッセージを読み取ることができるのだなと気づいた。

アンドロイドというのは人間にとって徹底的な異者であり、我々はそれとどう関係すべきなのかということを考えさせるのがこのゲームだ。
そして、主人公がアンドロイド側、異者側であることが面白い。現実世界において異者は排除されがちだ。人種差別、マイノリティ差別。それがエスカレートするのは、「相手の気持になって考えることが出来ない」という共感能力の欠如に原因を見出すことはできると思う。逆に言えば共感体験をさせれば世界は寛容の側に動くかもしれない。
つまり、デトロイト・ビカム・ヒューマンがアンドロイドを主人公にしてアンドロイドとしての生き方をプレイヤーに体験させるということは、ただゲーム体験にとどまるだけではなく、プレイヤーの共感能力を拡大させて世界をより良くする効果すら狙っているのではないだろうか。
このゲームを通してアンドロイドの解放を願ったプレイヤーなら、たとえば20年後に本当にアンドロイドが知能を持って人間社会に対して権利を要求した際、彼らに肩入れする主義者になっているのではないか。
さらに、それはアンドロイドに限らず、すべての異者、人種や国籍や性的指向や宗教やなんでも、異なる相手に対して自分が向ける眼差しの視野を広げることにつながっているのではないだろうか。

デトロイト・ビカム・ヒューマンは、ゲームとして面白いだけではなく、現実世界をより良く変える意図すら秘めた、神話的名作なのだ。100点!